1980(昭和55)年、長年の防除事業の努力により、奄美群島からミカンコミバエは根絶されました。しかし、2015年、侵入の脅威に奄美群島はふたたびさらされています。
過去のミカンコミバエ防除事業の様子がどのようなものであったのか、あらためて学んでおくことも大切かと思います。過去のミカンコミバエ防除事業については、インターネット上でもなかなか探しにくいので、ミカンコミバエ防除事業の経過等がまとめられた公開資料を紹介しておきたいと思います。
次にご紹介するのは、1969(昭和39)年、日本復帰前の沖縄県に置かれていた「琉球植物防疫所」の伊波興清さんが、奄美群島で進められていたミカンコミバエ防除事業を視察した際の記録です。
伊波興清「喜界島のミカンコミバエ防除実験事業視察記」、1969、『沖縄農業』第8巻第1号、沖縄農業研究会(外部リンク)
奄美群島におけるミカンコミバエ防除事業の経緯として、下記の事実はもうほとんど忘れられかけているので引用しておきます。
「奄美群島は現在、ミカンコミバエの発生地(他のいくつかの病害虫についてはここでは省略した)のため日本々土間では植物防疫法により寄主植物の移動禁止または制限がなされているのであるが、これらの事実によって奄美群島の農家の所得の低下をきたしていることは否定できないことであり、このような防疫行政に対して常日項からの不満の現れの一端として、昭和42年3月15日、大島新聞の檮正巳記者による月刊奄美への投稿、また5月には作家の島尾敏雄氏による朝日新聞への「奄美からの告発」としての投稿は、ミカンコミパエの取締方についての農林省側を片手落ちだと指摘し、奄美は未だ本土に完全復帰したとは云えない、という内容で痛烈に批判した記事がたまたまNHKの目にとまり、昭和42年8月11日には現代の映像として全国向けに奄美の主要病害虫が放映された。このようなことについて農林省は手をこまぬいてみておれる筈はなかった。このようなことと相前後して大島郡民は、県当局に対してミカンコミパエの積極的解禁策のために何十回となく波状的に陳情がくり返されていたのである。大島郡民は、ヘビのなま殺し同様、生かさず殺さず復帰後10年余も経た今日未だに離島苫になやまされておるが、われわれは島津藩時代から糖業問題ではずいぶん苦しめられ搾取されてきたが、昭和の時代になって今なおママ子扱いにするとは何ごとか、政府は鹿児島県かいもん町においては、アリモドキゾウムシの発生と同時に緊急防除がなされてきたが、大島郡の場合場合は、さつまいものてんぐ巣病やアフリカマイマイについても移動取締りをするだけで、何故もっと適切な対策をたててくれないのか、政府は一歩進んで防除対策面にも手をのばすべきであると、某県会議員は議会で県当局の手ねるい対策をきびしく追求し、また台湾やハワイにおけるポンカンなどの科学的処理による移動の緩和例等をあげ、政府の科学の否定は許さるべきものではないとしてあの手この手で迫る郡民の熱意はついに実を結び、結果としてパパイヤの本土への解禁、喜界島におけるミカンコミパエの防除実験に、農林省は必要経費の半額負担で事業に着手するというところまでこぎつけたわけである」
島尾敏雄さんの朝日新聞投稿記事「奄美からの告発」は、奄美市立奄美博物館1階の島尾敏雄コーナーに展示してあります。
この報告の最後で、筆者の伊波興清さんは、次のように述べられています。
「筆者は、大島郡民の郷土の果樹産業振興のために立ち上った熱意で遂に政府へ防除実験事業に着手せしめた(※せしめ、の誤りか)。また従来本土へ移動禁止品であったパパイヤを条件づきで解禁にもっていったねばり強さに敬意を表するとともに、1日も早く喜界島からミカンコミバエのゼロの確認がなされ、喜界島はもとより大島全郡の果樹栽培が益々発展することを祈念するものである」
「なお琉球においてもミカンコミバエの問題は切実なるものがあるが、案外関係者の関心はうすいように思われる。たとえば冒頭に述べたとおり、本土に出荷を目的とする柑橘栽培なら今すこしあらゆる面から積極的な諸調査や研究がなされてしかるべきであるが、一部の方には、未だ輸出できるような大量のものがないとか、奄美が防除に成功した時点でそれらの技術を導入してもおそくはないとの考えをもった人々もおると聞くが、はなはだ遺憾であり、われわれは琉球なりのミカンコミパエ解禁策のための諸調査や実験、大学、農業試験場、植物防疫所、政府農産課および関係市町村がそれぞれの立場からもっと真けんに取りくむべきである」
当時の事業に取り組んでいた方の言葉として、あらためて受け止めたいものですね。