南島雑話

『南島雑話』は、幕末の奄美大島の様子について、「ルリカケス」「アマミノクロウサギ」をはじめとする動植物等の自然、衣・食・住、生業、冠婚葬祭、行事、信仰等について、彩色された図入りで詳細に記録された民俗誌です。
奄美市立奄美博物館所蔵本(写本)は、平成3年1月に永井昌文氏から寄贈されたもので、『南島雑話・全』『南島雑話附録・全』『地理纂考・通昭録・南島雑記』『大嶹竊覧・大嶹便覧・大嶹漫筆』『川辺郡七島記』の5巻で構成されています。『南島雑話』という名称は、これらの総称として使われている通称です。
『南島雑話』は、ほかに東京大学史料編纂所所蔵写本、鹿児島県立図書館所蔵本等、複数の写本群が確認されています。
『南島雑話』の著者の一人が、(なごや さげんた)時行(ときゆき)です。薩摩藩の番頭兼御側用人・小姓組番頭兼御軍役奉行・社寺奉行・大番頭等を歴任した上流藩士で、文武両道にすぐれ、和歌や書画のほか、医術や本草学にも通じていた知識人でした。
名越左源太と奄美大島の関係は、嘉永2年(1849)に起きた薩摩藩のお家騒動(高崎崩れ、お由羅騒動)に連座したとして、奄美大島に遠島されたことにはじまります。嘉永3年(1850)から安政2年(1855)まで、5年間にわたり、奄美大島の名瀬間切小宿村に流刑されていました。
嘉永5年(1852)、流刑中の名越左源太に「嶋中絵図書調方」の役目が命じられました。欧米列強艦隊がアジアに迫る緊迫した世界情勢の中で、海防政策の一環として海岸防備図の作成が進められたのです。『南島雑話』の内容が、奄美大島の自然・文化のあらゆる項目に及んでいる様子は、当時の社会情勢も考えると、薩摩藩の殖産興業を図る観点から、奄美大島の資産総点検する意図が存在していたのかもしれません。
名越左源太は、文政2年(1820)に生まれ、明治14年(1881)6月16日、62歳で死去しています。二男・二女の子供がいて、長男の時成(ときなり)は、慶応元年(1865)2月、薩摩藩の第一回英国留学生として洋行しています。帰国後、戊辰戦争にも従軍しています。明治初期には、奄美大島に一時居住して、伊津部村の武實三の娘・ヨシマツと結婚、後に鹿児島に戻り、二男二女の子どもをもうけています。
『南島雑話』奄美市立奄美博物館所蔵本は、「奄美市指定文化財」として大切に保管されています。また、名越左源太時行の子孫が大事に保管していた「南島雑話下書」及び「名越左源太関係史料」(日記・書簡類)も平成13年(2001)4月に寄贈され、奄美市立奄美博物館に保管されています。

※南島雑話の画像利用については、奄美市の奄美博物館所蔵資料の画像利用についてを必ずお読みください。

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奄美市立奄美博物館所蔵
奄美市指定文化財