奄美の歴史

 日本の小中学校で使われている教科書には、奄美群島の自然・歴史・文化について、何も記載が認められません。教科書に何も記載されていない現実は、特に歴史分野では、地方史にすぎない奄美の歴史は重要ではないと誤解されてしまう場合もあるのではないかと心配になります。
 しかし、最近の研究の趨勢としては、むしろ日本歴史を理解する上で、奄美群島史は「欠かせない」地域史であり、きちんと把握するべきと認識され、注目されはじめているのです。
 奄美群島史は、①複雑な行政統治、②伸び縮みする国家境界、③最北の亜熱帯島嶼、という視点から通史を概観をしてみると、その特徴が浮かび上がります。以下、①から③の視点に注意しながら、(薩南諸島史、南西諸島史を含む)の要約を紹介しておきます。

1 旧石器時代

 奄美群島にはいつから人が暮らしていたのか、定番の関心事だと思います。約26,000~29,000年前に噴火、降灰したと考えられる「姶良(あいら)Tn火山灰」が喜子川遺跡(奄美市笠利町)、ガラ竿遺跡(伊仙町)で確認されていて、その堆積層の下層から遺跡が確認されているので、既に旧石器時代には、奄美群島で人が暮らしていた事実が解ります。
 当該時期は、最終氷期に当たり、海面は現在よりも100m以上低下して、既に南西諸島は分断されて島嶼化していました。旧石器時代人は、有視界航行で島嶼間移動してきたと考えられるのですが、旧石器の形態から、九州系石器説と台湾系石器説の両極の理解論が示されていて、南西諸島の初期人類の系譜はまだ明らかではありません。

2 縄文時代

 縄文文化は、沖縄本島まで波及が認められますが、先島諸島では、縄文文化とは異なる南方的文化が営まれていました。奄美群島は、基本的に九州の縄文文化の影響を強く受けています。奄美群島では、約7,000年~6,000年前のイャンヤ洞穴遺跡、喜子川遺跡(奄美市笠利町)、中甫(なかふ)洞穴遺跡(知名町)等が確認されていますが、地球規模で最も温暖化、海面上昇がピークに達した時期に当たり、その海面上昇は「縄文海進」と呼ばれています。この時期に形成された古砂丘列から、縄文時代の遺跡が多数確認されているのです。
 現在のサンゴ礁が発達した海岸地形は、まだ形成されていませんが、生業はやはり漁労採集活動が中心でした。大型哺乳類のリュウキュウイノシシや大型爬虫類のウミガメが、植物食・魚貝類と並んで、重要な食料資源として捕食されてきました。約4,000年前から竪穴住居の集落形成が活発化しはじめ、特に約3,000年以降は、ハンタ遺跡(喜界町)、国指定史跡「宇宿貝塚」(奄美市笠利町)、城サモト遺跡(奄美市住用町)、塔原遺跡(天城町)、国指定史跡「住吉貝塚」(知名町)、上城(うわぃぐすく)遺跡(与論町)等の集落遺跡が奄美群島全域から確認されるようになり、大型石皿や磨製石斧、骨角器や貝製品等が発達した独特の縄文文化が繁栄しました。

3 弥生時代並行期~古墳時代並行期

 日本歴史が農耕社会から政治的社会に転換していく弥生時代から古墳時代、南西諸島は、弥生文化も古墳文化も定着せず、異なる歴史を歩みはじめていきます。しかし、奄美群島や沖縄諸島は、弥生文化・古墳文化と交流が断絶していたわけではありません。
 弥生時代・古墳時代の政治的社会における有力階層が使用していた装身具は、ゴホウラ・イモガイ等の奄美群島以南に生息する南海産大型巻貝類を素材としたものが中心であり、これらの素材供給地として九州と遠隔地交易が活発に行われていました。「最北の亜熱帯島嶼における交易史」が、当該段階から開始されるのです。
 奄美群島に農耕社会が形成されるのは、11世紀代からです。奄美群島では、弥生時代以降、長期間にわたり漁労採集活動が生業の中心を占めていました。しかし、少なくとも7世紀以降には、鉄器が普及しはじめていて、農耕を行わない成熟した漁労採集社会が発達していたと考えられています。
 サンゴ礁と海岸砂丘が発達した現在の海岸地形は、弥生時代から古墳時代にかけて形成されたもので、多数の貝塚遺跡が確認されています。サンゴ礁に適応した漁労活動が発達して、成体にならないアオウミガメ(体長50cm前後)も、食用として大量捕獲されています。

4 古 代~中 世

 7世紀に古代国家(律令国家)が成立すると、列島周縁の「蝦夷(えみし)」「隼人(はやと)」まで地方統治政策が強力に展開されるようになり、南西諸島も「化外(国家の統治の及ばない地域)」として位置づけられ、「南島(なんとう)」と呼ばれる異域として認識されるようになります。
 『日本書紀』『続日本紀』の記事から、古代国家と南西諸島は、奄美大島を拠点としながら朝貢を行う緩やかな政治的関係が維持されていたと理解されています。大宰府政庁跡からは、奄美群島から運び出された貢納品に付けられたと思われる奈良時代の荷札木簡が出土していて、奄美大島・沖永良部島と思われる島名が記載されたものが確認されています。
 その後、11世紀から13世紀頃には、南西諸島は「南島」から「キカイガシマ」として認識されるようになります。その頃の国土領域の地理的認識は、東縁が「ソトガハマ」(青森県津軽半島東部)、西縁が「キカイガシマ」(鹿児島県薩南諸島)として理解されていました。
 特に「キカイガシマ」は、薩摩硫黄島を中心とする火薬原料(宋の軍事兵器用)の硫黄交易、喜界島を中心する螺鈿(らでん)原料の夜光貝交易等、日宋貿易に欠かせない重要地域として機能していたと考えられています。12世紀に建立された世界遺産「平泉の文化遺産」の中尊寺金色堂で用いられている数千個といわれる夜光貝も、奄美群島北半から運び出された可能性が高いと考えられています。
 鎌倉時代には、地理的認識がさらに精密となり、薩南諸島は「口五島」「奥七島」から成る「十二島」と「外五島」(奄美群島)として認識されるようになります。ここに中世国家の国土領域は、最大面積に達するところとなるのです。

5 琉球国統治時代

 15世紀初頭、沖縄本島に「琉球国」が成立します。南西諸島で、「日本」と「琉球」の二つの国家がせめぎあう関係が発生したことになります。琉球国は、1450年、1466年、1537年、1571年等に奄美群島に軍事侵攻していて、おおむね15世紀中頃には奄美群島を統治下に編入したと考えられています。中世国家の国土領域は、琉球国の奄美群島侵攻により、ふたたび後退することになります。
 琉球国の奄美群島支配統治により、琉球国の行政機構が奄美群島にも適用されるようになります。現在の地方自治体に相当する「間切」と呼ばれる行政単位が導入され、奄美大島7間切(笠利・古見・名瀬・住用・屋喜内・東・西)、喜界島5間切(志戸桶・東・西目・湾・荒木)、徳之島3間切(東・面縄・西目)に区分されていました。
 沖永良部島・与論島は、薩摩藩統治時代には、沖永良部島3間切(木枇留(きびる)・大城・徳時)、与論島2間切(東・西)が確認できるのですが、琉球国統治時代まで遡るものなのか明らかではありません。
 行政統治する役人と同時に、重要な職務を与えられていたのが、ノロとよばれる神女たちです。ノロの祭祀組織は、各集落単位で構成されていましたが、それらのノロを統括する「大あむ」等と呼ばれる管理職のノロが各島に配置されていました。そうしたノロ祭祀の神女(神役)が、奄美大島・加計呂麻島の各集落には、数は激減していますが、まだ現存しています。

6 薩摩藩統治時代

 江戸時代になると、琉球国と交易を続けてきた(世界遺産「石見銀山」産出銀は、琉球国を経由してマラッカ王国等の東南アジアで海外と取引されていた)薩摩藩が、1609年に琉球国へ軍事侵攻して、異国である琉球国を支配統治下に置く重大事件が発生しました。その結果、琉球国は、実質的には近世国家(幕藩体制)に編成されるところとなります。
 しかし、薩摩藩は、琉球国を支配統治下に置きながら、公的には独立国家として存続させて、琉球国から薩摩藩に割譲された奄美群島も、公的には琉球国の所領としてそのまま位置づけていたのです。これは、対外関係上、琉球国を「装う」ための措置として行われたものです。薩摩藩による奄美群島の統治体制が整備されていく過程で、奄美群島は、琉球国とは異なる近世国家の体制に直接的に編入されていくのです。
 薩摩藩は、米による税収確保のため、奄美群島の農業振興に積極的に取り組みましたが、1747(延享4)年の「換糖上納令」(米を黒糖に換算して税として納める)を契機として、稲作からサトウキビ裁培への転換が進行しました。さらに1830(文政13)年から「惣買入制」(生産した黒糖すべてを藩が買い入れする制度)が開始されるようになると、サトウキビ栽培のプランテーション化は、奄美群島全域で著しく進行していくことになります。明治維新を主導した「薩長土肥」の中でも、やはり薩摩藩が果たした役割は際立つものがあります。その薩摩藩財政で、奄美群島で生産された黒糖が果たした役割の大きさは、確認しておかなければならないところです。

7 近  代~現  代

 明治政府は、1871(明治4)年に「廃藩置県」を施行しますが、これに伴い琉球国は、1872(明治5)年に「琉球藩」となります。以後、1879(明治12)年に「沖縄県」になるまでの過程は、「琉球処分」と呼ばれていますが、公的に琉球国として扱われていた奄美群島も、明治時代に鹿児島県に編入されてはいますが、決して無関係ではありません。明治時代に移行しても、砂糖利権については、基本的に薩摩藩統治時代と変わらず、鹿児島県により独占されていました。
 黒糖をめぐる農民苦難の時代は、戦後になるまで続くのですが、一方で、明治時代は、大島紬、カツオ漁、林業、百合根等のサトウキビ栽培以外の新しい産業が成長した時期でもあるのです。亜熱帯の自然環境に適応して、芭蕉布や大島紬等の染織文化が発達、特に大島紬は、奄美大島の基幹産業として繁栄していきます(昭和50年代前半以降、衰退を続けていますが)。
 1923(大正12)年、瀬戸内町古仁屋に陸軍要塞司令部が設置されたのを嚆矢として、奄美大島・加計呂麻島に挟まれた大島海峡には軍事施設が整備され、太平洋戦争開戦に向けて軍事拠点化していきます。1927(昭和2)年8月6~7日、即位してまもない昭和天皇が、奄美大島を行幸されています。その直前にも、7月30日~8月1日、小笠原諸島の父島・母島を行幸されています。
 太平洋戦争終末期、米軍は「アイスバーグ作戦」と命名した南西諸島攻略作戦を4月から6月に展開、沖縄本島に約55万人の米軍兵士が上陸、日本軍約11万人が迎撃しましたが(約9万人が戦死)、住民も10万人以上が死亡したといわれる国内最大の激戦地と化したのです。
 敗戦後、種子島・屋久島の南側となる北緯30度以南の南西諸島は、米軍の占領統治下に置かれることになります。ここから8年間にわたる「米軍占領統治時代」が始まるのです。この時、日本の国土領域は、大きく縮んだことになります。その後、1951(昭和26)年にトカラ列島が日本に返還されると、続いて本土在住の出身者の方を含め奄美群島の住民が総力を結集、祖国復帰運動に取り組み、1953(昭和28)年に奄美群島が日本に返還されるのです。そして1972(昭和47)年、北緯24度以北の島々、沖縄県が日本に返還されます。現在の日本の国土領域の範囲は、こうした南西諸島の島嶼の日本返還の歴史を経て、確定されたものであることを確認しておく必要があります。
 奄美群島の日本復帰後、1954(昭和29)年に制定された「奄美群島復興特別措置法」(現在は「奄美群島振興開発特別措置法」)に基づいて復興事業が進められていきます。奄美群島だけで許可されている「黒糖焼酎」の生産も、そうした事業の一環として、日本復帰直後に開始されたものです。サトウキビ農業も、現在でも盛んに行われていて(原料糖用)、高品質の黒砂糖も生産されています。
 以上の南西諸島の日本行政分離から、国土領域は一度定められたら変わらない不動不変のものでは決してなく、政治的な事情により伸縮する事実を学ぶことができます。また奄美群島史の通史から、琉球国統治時代、薩摩藩統治時代、米軍占領統治時代と、外部の政治的権力による支配統置が何度も繰り返されている事実にあらためて気づかされます。奄美群島は、日本でも非常に特殊な歴史を持つ地域であることを確認していただきたいと思います。そして、その複雑な行政統治の歴史こそが、奄美群島に独特の文化の醸成をもたらしてきたのです。